「生活情報交換会 9月例会」に参加して

NPO法人 しまだ環境ひろば 「事務局」 です。

 

今日 (9月20日 金 am) は、「生活情報交換会 9月例会」 に参加しました。

 

生活情報交換会は、某企業を同期で退職した数人が、これからの生活を有効に過ごそうと、最初は会員間の情報交換会から始まり、だんだん耳も肥えて来て、外部講師をお招きしての講演会中心の会となりました。

 

政治・宗教などイデオロギーに近いテーマは敢えて避け、その他のテーマは幅広く取り上げて、講演会の数はもう百十回を数えています。

 

いまや会員数も70名を超え、今日も48名の出席者でした。

 

今日のテーマは、徳川家康駿府城下町」 と題して、講師は、静岡市観光交流文化局歴史文化拠点推進監  中村羊一郎先生でした。

 

中村先生からは、去る8月に、三菱電機OB会で、今川義元を中心にした今川文化についての講演を聴き、今回はその第二部を聞けるのではないかと期待に胸躍らせて出席しました。

 

先生は、冒頭に、徳川家康は静岡 (駿府) に3度関りを持ったことから話始めました。

 

 ■ 少年時代 今川の人質として駿府に送られたが、今川家に大事に育てられ、家康の素養・基礎はこの時代につくられた。

 

 ■ 壮年時代 三方ヶ原の戦い武田信玄に負けて、その後浜松城から駿府城に移った。

 

 ■ 晩年時代 関ケ原の天下分け目の戦いに勝って、以後徳川時代の礎を築き、政権を秀忠に引き継ぎ、自分は大御所として駿府に移った。

 

政権は秀忠に譲ったが、決定権 (内政・外交) は全て持って、駿府から全国ににらみを利かせた。

 

大御所時代の家康は、外国人の登用や、諸外国との交易など華々しい外交政策を展開、久能山東照宮の西洋時計がその証でもある。

 

そんな徳川家康が、なぜ駿府を選んだか。

 

それは、

 

 ■ 駿府は、江戸・名古屋・大阪の真ん中にあり、、東は箱根、西は安倍川・大井川、北は2,000m級の南アルプスなど、自然の要害の地だったこと。

 

 ■ 海外との交易が重要になって来た時代、清水港を擁していたこと。

 

 ■ 温暖で水が豊富だったこと。

 

駿府城の歴史は次の通りであるが、殿様不在の時代が長く続き、町人中心の城下町が栄えた。

 

 ■ もともとこの辺りには、今川の館があった。

 ■ 徳川家康天正期の城

 ■ 中村一氏の城

 ■ 家康の慶長期の城

 ■ 徳川家康の10男 徳川頼宣が城主に。

 ■ 徳川忠長が駿河藩主に。

 ■ 以後駿府城の城主は不在となった。

 

駿府は、気候温暖、今川の京文化や、家康の大御所政治その後の殿様の長期不在による城下町の繁栄などなど、温厚・まあまあ・しょんないなァなどの静岡人気質が広がって行った。

 

世界の中では、日本の気風は温厚の部類に属し、その気風は駿府から育ったと言っても過言でなく、駿府は日本の代表ともいえる。

 

次に先生は、駿府城下町と浅間神社に話を移し、浅間神社は、実は3つの神社で構成されていることを説明された。

 

 ■ 浅間神社

 ■ 神部神社

 ■ 大歳御祖神社は、土着の神様であり、地域では最も尊ばれた神様であった。

 

毎年4月5日 旧暦2月20日 大御所行列を中心とした静岡まつりが盛大に開催されているが、実は神様を乗せた神輿の練り歩きと、稚児舞楽中心の祭りであった。

 

そういう歴史を良く理解して行かないと見方を誤る。

 

先生は、今日は徳川家康駿府城下町について話を進めてきたが、この駿府は今川文化を抜いては語れない。

 

今川家があって、徳川家康があり、今、静岡駅北口には、家康の少年時代の「竹千代像」 が一人寂しく立っているが、近々、そのすぐ横に今川義元公の銅像が併設され、名実共に駿府の歴史・物語を語れるようになる。

 

みなさんも、正しく歴史を理解し物語を語る語り部になって、駿府をこれから大いにPRしてもらいたい。と説明し本日の講演を終わりました。

 

中村先生、ありがとうございました。