「第27回 静岡歴史民俗研究会」へ参加

NPO法人 しまだ環境ひろば 「事務局」 です。

 

昨日(11月26日 土 pm)は、人生の先輩であるUさんからの紹介で「第27回 静岡歴史民俗研究会」聴講の機会を得て、始めて参加しました。

 

会場は40名が収容できる会議室でしたが、ほぼ満員で毎回盛況だそうです。

 

今回のテーマは駿府・家康シリーズ パートⅠ」と題して、第一部は駿府と家康の今昔・未来」を丸子語り部小豆川 整氏が、第二部は「大御所家康、なぜ駿府を選んだのか?~駿府城の・町づくりから見えること~」を歴史地理研究者の 望月 茂氏が発表しました。

 

■ 駿府と家康の今昔・未来」 小豆川 整氏

 

語り部とはこんなものか、小豆川氏は決して流暢ではなく、静岡弁丸出しで話始めましたが、講師然としたところは全く見せず好感が持てました。

 

小豆川氏は、公民館や学校を訪問しての日頃の地域の歴史や文化の語り部活動を紹介しながら、駿府・家康の人生に焦点を当て、家康は何を目指したか、そして後世にどういう良いことをもたらし、更に未来に向けてのあり方をどう示唆しているか、を語りました。

 

言わんとすることは、家康は徳川時代の礎を築き、明治の時代も小さないざこざはあったが大きな戦争は無く300年の平和をもたらし、日本独自の文化に花を咲かせた。

 

家康の功績は、平和な日本の創設と、平和の有難さを未来に向けて教えたことだ、と結び講演を締めました。

 

■ 大御所家康、なぜ駿府を選んだのか」 望月 茂氏

 

発表者の望月 茂氏は、長年の研究で積み重ねて来たデータ・写真・分析資料をふんだんに駆使して、家康がなぜ駿府を選んで移り住んだのか、駿府で何をやったのかを滔々と語り始めました。

 

家康が関ケ原で大勝利を収めたが、豊臣の勢力は未だ強く決して徳川家は盤石ではなかった。

 

そのために家康は政権を秀忠に託して自身は駿府に下り、西の砦(駿府)を築いたのではないか、と仮説を立ててその実証をするために、駿府城や街づくりに隠されている謎を具体的に探して来たという。

 

今回は、次々と出て来た西の守りのための痕跡を紹介する発表でした。

 

 ◆ 西の守り=本丸に立つ天守(監視)、三重の堀と石垣・横矢・桝形虎口・馬出し・搦め手の詰橋・ジグザグ東海道・寺町の配置など防護体制の確立。

 ◆ 西国大名の力を削ぐため、駿府城の「天下普請」を命じた。石垣に大名の刻印があることが証明している。

 ◆ 家康のまちづくりの特長は、西の防護を固めた駿府城を中心に、武家屋敷や寺町・町人を配し、横内川や巴川を整備し運河を巡らし経済・物流基盤を作り上げた。

 

最後に次回「大御所家康、なぜ駿府を選んだか?パートⅡ ~大阪包囲網・諸法渡への変遷をたどる~」を予告し、その次は「家康の幼少期について」も興味深いと言い、今回の講演を終わりました。

 

望月先生、小豆川さん、ありがとうございました。