NPO法人 しまだ環境ひろば 「事務局」 です。
今日(12月20日 金 am)は、「生活情報交換会 12月例会」に参加しました。
本会は、平成22年4月(2010年)に立ち上がって以来、原則として月一回の講演会を開催し、今日は123回目、参加者は48名と盛況でした。
毎回時節にあった話を、極めて安い会費で聴くことができ、幹事の苦労が察せられます。
昨今、講演を依頼すれば講師料は数十万円が相場ですが、本会は幹事が骨身を削って講師の手配やその段取りに奔走しているからです。
さて、今日の演題は、「徳川家康と久能山東照宮」、講師は、久能山東照宮 宮司・同博物館館長の落合偉洲(ひでくに)さんでした。
徳川家康没後400年が話題となり、久能山東照宮・宮司の落合さんは時の人としてテレビで何度かお見掛けしており、少し緊張気味で身構えてお話を聞こうとしましたが、淡々とした話し振りにすっかり緊張が解け、聞き入ってしまいました。
落合さんのお人柄だと思います。
落合さんは、前任の松浦宮司さんから、平成14年(2002年)に宮司を引き継ぎ、東照宮社殿の塗り替え、平成22年(2010年)には国宝に指定され、平成27年(2015年)には400年祭など大イベントを取り仕切ってきたという。
※ 国宝とは、日本の文化財保護法によって国が指定した有形文化財のうち、世界文化の見地から価値の高いものでたぐいない国民の宝たるものであるとして国が指定したものである。
お話は、家康の生涯から始まりました。
■ 1542年 徳川家康誕生
■ 1549年 6歳で今川家の人質となる。以降11年間 臨済寺住職 雪斎の教えを受けた。
■ 1570年 岡崎城に帰還
■ 1598年 豊臣秀吉 死去
■ 1600年 関ヶ原で天下分け目の戦いで勝利
■ 1607年 大御所として駿府城に入城
■ 1616年 徳川家康 死去
家康は亡くなる直前、家臣たちに「遺骸は久能山に埋葬すること」を託した。
遺骸が祀られた神廟は、遺命に従い西向きに建てられたという。
翌年に、御霊は神棺に分霊されて日光東照宮にも祀られたという。
この時遺骸が日光東照宮に移されたという説があるが、神棺に入れられたのは御霊のみで、今でも遺骸は久能山東照宮に眠っているとのこと。
何人かの有識者の幾重に渡る調査で、家康の遺骸が日光に移された形跡は全くないという。
さて、久能山東照宮には、スペイン国王より家康公へ寄贈された「洋時計」がある。
スペイン ドン・ロドリゴが、メキシコに帰国する途中で難破し日本に漂着、家康は船を提供して救助された乗組員を送り届けたという。洋時計はその贈り物だという。
家康が、海外の国々と友好的な関係を築き、戦いを避けて交易を主とした平和外交を目指していましたが、洋時計の寄贈はそれを物語っているという。
また家康は人づくりにも重きをおいて、人の上に立つ人の資格として、「自己欲求の少ない人」を大事にしたという。
学問を尊重しながら、百姓の憂いを除去するなど、人の上に立つ人の品格を説いたという。
とにかく家康は、命の大切さ、一人ひとりの命を大切にして平和な国を築くこと、天下泰平をいつも考えていたのではないかという。
このところ、生活情報交換会で、徳川家康や今川義元の話を何回か聞いて来ましたが、
今日はまた別の角度から聞くことができ有意義でした。
質問時間がなく、聞きそびれましたが、家康は6歳から17歳までの長い期間、今川の人質になったが、この間大事に教育されて家康の生涯にとっても非常に貴重な期間であったという。
今川は、桶狭間で敗れたとは言え、本隊は逃げ帰って徳川時代も残っていたというが最後は惨めな形で滅亡したという。
家康がその気になれば、今川家の再興はできたと思いますが、家康の心境は如何ばかりであったのでしょうか。本音が知りたいところです。
落合宮司さん、今日は有意義なお話、ありがとうございました。