駿府城の魅力を知る。
NPO法人 しまだ環境ひろば 「事務局」 です。
昨日 (8月2日 金 pm) は、某企業OB総会で、「駿府城の魅力を知る」 と題して、産業大学教授 中村羊一郎さんの講演を聞く機会に恵まれました。
最近、駿府城の再現計画が持ち上がり、天守閣のあった辺りの発掘がなされているが、金箔の瓦が出てきて、どうやら家康が築城前に豊臣秀吉が築城したのではないかと、にわかに脚光を浴びています。
駿府城の位置は、今川氏の館があった辺りで、徳川家康の天正期の城 → 中村一氏の城 → 徳川家康の慶長期の城 へと移ったという。
これまで、生活情報交換会で、駿府城にまつわる徳川家康や、今川氏の館の話をいろいろと聞いて来ましたが、今回の話は初耳の話が多くありました。
■ 1609年 家康の10男 徳川頼宣 駿府藩50万石の藩主へ。
■ 1624年 徳川忠長 駿府藩主55万石へ。
■ 以後、駿府城は藩主不在、主なし、幕府直轄領の時代が長く続いた。
■ 1635年 駿府城炎上
駿府城は、本丸・二の丸・三の丸で構成されていたが、日清戦争時代にまち起こしの一環として連隊招致の話が持ち上がり、内堀を埋めて練兵場 (訓練場) にしたという。
内堀には多くの遺産が埋まっている。
家康が何故、駿府に城を築いたか? それは、名古屋から江戸の丁度中間で、当時の物流は海路が重要視され、清水港という重要拠点があり、駿府城とは運河や河川でつないだという。
家康は自分の遺体は久能山に葬る遺言を残して、西をにらみ、東を照らす、神君 権現様となって、「久能山東照宮」を建立させた。各地の東照宮の始まりであった。
駿河は、今川氏の地、家康は幼少時代は、駿河 今川氏に育てられた。今川義元生誕500年、近々義元像が、家康の幼少時代の像の横に建てられる予定だという。
駿府城は、主は不在であったが、町人たちが中心になって、駿府の惣社 (浅間神社・神部神社・大歳御祖神社) を守り、浅間神社祭礼には九十六ヶ町を練り歩いたという。
このように、駿河の国 駿府城は魅力いっぱいだ。静岡、駿河と言えば徳川家康だが、元々は今川の地で、経済も文化も栄えた地であり、これを正しく伝承していくことは静岡人の責務である。
是非、今川義元生誕500年、みんなが語り部となって静岡を正しくPRして行こうと、中村先生は強調して講演を終わりました。
今回の講演を聞いて、島田市も人や文化や歴史や地理など魅力のあるまちだ。
話のネタはいっぱいあるが、それがバラバラで存在している。
何故、島田市に今川の居城があったのか、何故、島田市の多くの地に大井川を想像させる地名が多いのか、それらを物語風に語ることができる、語り部が少ない。
折角の魅力ある町が正しく伝承されていない。
これからの大きな課題だ。