静岡歴史民俗研究会「駿府・家康シリーズ4」参加

NPO法人 しまだ環境ひろば 「事務局」 です。

 

昨日(7月22日 土 pm)は、「第50回 静岡歴史民俗研究会 駿府・家康シリーズ(4)に参加しました。

 

静岡歴史民俗研究会は、最近は会場を静岡市のアイセル21(婦人会館)に置いて、静岡の歴史を古文書の発見や解読や足で稼いだ調査を基に探求・発表している会で、筆者は友人のUさんから紹介されて、早いもので今回で4回目の参加になりました。

 

令和4年11月26日駿府と家康シリーズ Ⅰ」から参加し、今回は駿府と家康シリーズ 4」で、本会は昨日、発足以来50回の節目の会となりました。

 

昨日の講演(発表)は以下の通り。

 

 ■ 第一部:題名「葵船からみる駿府城の謎解き」 講師:伊能 修 氏(葵船船頭 駿府静岡歴史楽会 本研究会員)

 ■ 第二部:題名徳川家康は、豊臣政権にどのように従属し、どんな役割をしたのか」 講師:堀 曉氏(戦国・近世史研究者 静岡歴史民俗研究会員)

 

第一部 「葵船からみる駿府城の謎解き」

 

講師の伊能 修氏は、令和3年3月から運航を始めた、駿府城中堀(二の丸掘 1.6km)を約30分間で1周する「葵船」の船頭を務めています。

 

葵船から観察した堀・石垣・刻印・櫓・門の状態や疑問、発掘中の2つ天守閣(天正期・慶長期、秀吉の城・家康の城)の構造や特色を取り上げて、その違いをパワーポイント画面を使って詳しく解説、そして大きく2つの謎解きを試みました。

 

■ 謎1:今川館はどこに? = 四足門=四脚門(中町)付近にあったのではないか。

■ 謎2:天正期と慶長期の2つの天守閣とは? = 時代が異なる2つの天守閣が存在したことは明らかだが、秀吉の城か、家康の城か、は今後の発掘の進展が待たれるが、天正期(家康が秀吉に臣従していた時代)と慶長期(大御所家康時代)の2つの天守閣は、大きさと言い、内容も大きな違いが見られる。

 

第二部 徳川家康は、豊臣政権にどのようにして従属し、どんな役割を果たしたか」

 

堀氏は、家康は幼少の時代は今川に、それから織田に、豊臣にと従属の歴史だった。家康の記録は「三河物語」・「当代記」・「松平記」・「徳川実記」など江戸時代になって書かれたものが多いが、今日は当時の「古文書」を中心にして、そこに書かれている内容から分析、研究結果を話してみたいと切り出しました。

 

1.織田信長亡き後の政権後継

 

 天正10年の本能寺の変後の織田軍幹部会議清須会議で、信長の息子信雄は「尾張」、信孝は「美濃」、秀吉は政治の中心である「山城」・「丹波を抑え、以後は秀吉の時代へまっしぐら。

 

2.羽柴秀吉との対立

 

小牧・長久手の戦いで家康は秀吉軍を破るも、この頃の情勢は織田政権から羽柴政権へ移行が顕著。

 

3.家康、秀吉に臣従する

 

天正13年秀吉は関白へ、豊臣の姓を賜わり秀吉絶頂期へ。反面家康との関係は緊張状態へ、危機的状況になるも天正13年11月29日、天正地震が発生し、戦いどころではなくなり融和して家康は秀吉に臣従した。

 

天正地震が起こらなければ、家康は苦境に追い込まれ、窮地に陥ったかもしれない。

 

天正13年に家康は駿府城の築城に着手したが、秀吉の了解なしにはできなかったのではないか。しかし秀吉との戦いを想定していた節がある。

 

4.豊臣政権下の徳川家康

 

天正14年4月、家康は、秀吉の妹「旭姫」と結婚、10月には大阪城に登城して秀吉に接見、家康は東北の伊達家、関東の北条家などに秀吉への従属を働きかけていた。

 

5.家康は豊臣政権で最も家格も軍事力も高い。

 

家康は豊臣政権下で、朝廷から最も高い官位を受け、石高や軍事力も容認されていた。

 

6.駿府城築城は臣従によって性格を変えた

 

天正期の駿府城築城は家康単独ではつくれない、明らかに秀吉の関与があって、石垣や天守閣はできた。

 

堀氏の発表は、実際に現存する古文書を紐解き、研究を加えているので、非常に迫力があり説得感があった。

 

次回駿府・家康シリーズ(5)」は、11から12月頃の予定が席上で発表されました。待ち遠しい!