第48回「静岡歴史民俗研究会」に参加
NPO法人 しまだ環境ひろば 「事務局」 です。
NHK大河ドラマ「どうする家康」が始まり、折しも「静岡市歴史博物館」が開館したことから歴史民俗への関心が高まっています。
昨日(1月4日 土 pm)は、静岡歴史民俗研究会主催の「駿府と家康シリーズ(パートⅡ)」に参加しました。
■ 第一部:「どうだった?竹千代 ~今川氏従属下の松平元康~」講師:静岡歴史民俗研究会 堀 曉(あきら)氏
■ 第二部:「大御所家康、なぜ駿府を選んだのか? ~駿府から徳川政権への道をたどる~」講師:歴史民俗研究会 会長 望月 茂氏
同研究会は今回48回という伝統のある研究会で、今日も会場はほぼ満員状態、筆者は、地域社会に出てからお付き合いが始まった人生の先輩から推薦を受けて、今回2回目の参加でした
前回パートⅠは、家康は多くの困難や人生の岐路に立たされながらも「天下人のためではなく民衆のための天下」を目指したことや、家康がなぜ江戸から「駿府」を選んだのか?、実は駿府は江戸を守るための絶好な地であったことを学びました。
今回はそのパートⅡで続編でした。
第一部の講師の堀氏は、NHKテレビ大河ドラマ「どうする家康」が、いきなり桶狭間の闘いからスタートを切ったが、今日はその前の幼少時代「竹千代」の置かれていた境遇について、古文書など史実に基づいて話をしたいと切り出しました。
竹千代は、天文11年(1542年12月26日(寅年)に松平氏の長男として岡崎で生まれた。幼少の頃の三河の国は、今川氏と織田氏の間に挟まれた西三河の国衆で、その頃の当主の息子たちは、人質に出されるということは珍しいことではなかったという。
竹千代も織田氏の人質になったり、今川氏の人質になったり、幼少時代は人質の連続で苦労はあったと思うが、僅か8歳にして松平氏の当主であったことから、人質とは言え粗末な扱いは受けていなかったと思われるという。
講師の堀氏は、徳川史観で語られている「安倍川での石合戦」や「臨済寺の雪斎和尚の教育」などの伝承に疑問を持ちながら、限られた史料(手紙や古文書など)を基に竹千代の置かれていた境遇の説明をしたが、非常に納得の行く説明であったと思う。
続いて第二部は、「大御所家康、なぜ駿府を選んだのか?パートⅡ」は、同研究会会長のの望月 茂氏の渾身の発表でした。
駿府は江戸から約180km、名古屋まで約180kmそして大阪までまた約180km、関ケ原で西軍を打ち破ったとは言え、豊臣恩顧の大名は健在で、いつ謀反の旗を挙げるかもわからない時代!
家康は、豊臣恩顧の大名の命と経済力を削ぐことや、大阪包囲網への城づくり、京都方広寺の「鐘銘事件」、大阪の陣による大阪城の落城などなど、徳川政権の基盤づくりを最高な地の利の駿府から着々と手を打っていったという。
今回は、写真や絵図、現地取材、史料等を駆使してその詳細を丁寧に話され、非常に説得力のある説明で感心しました。
駿府城の特に西側の鉄壁な守り、安倍川・大井川の橋づくりや渡船の禁止、名古屋城や彦根城の整備、西国の大大名の国替えや土地の没収など、並々ならぬ決意とその実行に驚く。
なぜ家康が駿府を選んだのか、良く分かり、その後の念には念を入れての西国大名対策も合点が行きました。
最後に、望月講師は次回、「大御所家康、なぜ駿府を選んだのか?パートⅢ」の予告、「食」を取り上げて見たいと発言、席上で参加者の賛同も得られて次回のメニューも決まりました。
次回が楽しみになって来ました。