静岡歴史民俗研究会主催「家康シリーズ6」

昨日(3月9日 土 pm)は、静岡歴史民俗研究会主催の講演会駿府と家康シリーズ No.6」を聴講しました。

 

今回は、駿府と家康シリーズ6回目で「どうする家康」の最終回でした。

 

大河ドラマ「どうする家康」の余韻が残る中、当講演会も盛況で今回も会場は50人程の出席、今日の出し物は次の2題でした。

 ◆ 題名:まさに「どうする家康」~波乱の人生から天下人へ~ 講師:戦国・近世史研究者 堀 暁 氏

 ◆ 題名:「信長・秀吉・家康の茶文化」 講師:北部図書館友の会会長 小泉啓子氏

 

■ まさにどうする家康 波乱の人生から天下人へ

 

堀 講師は、大河ドラマ「どうする家康」でも家康が生涯で遭遇した危機をどう乗り越えて行ったか、をいくつも演出していましたが、実は詳細を証明できる史料は非常に少ない。江戸時代は家康のことを悪く書く人はいないので真実は分からない。

 

数少ない史料や古文書で、家康が遭遇した危機とそれをどう乗り越えて来たかを推察して見たいと前置きして話始めました。

 

家康が遭遇した危機は、三河一向一揆」、「三方ヶ原の戦い」、「神君伊賀越え」が三大危機と言われていますが、家康の生涯を見れば青年期から危機の連続であり、その都度滅亡してもおかしくなかった。

 

青年期の危機は、桶狭間の戦い今川義元織田信長に討たれてから、織田軍と戦い、時を経て今度は今川氏真と戦い、自軍は反今川勢力と親今川勢力に分断され、まさに四面楚歌の状態へ。

 

今度は武田氏と抗争を始め、武田信玄三河遠江に侵攻開始、三方ヶ原で武田軍と交戦し大敗を喫し浜松城に逃げ帰った。「どうする家康」最大の危機が訪れたが、進軍中の武田軍が撤退、恐らく信玄が急な病に倒れ九死に一生を得た。

 

その後も武田軍との戦いは続き、「大岡弥四郎事件の危機」・「岡崎信康事件の危機」・「神君伊賀越えに危機」へと危機は続いて行く。

 

その後武田軍が滅びた後、信長から家康は駿河の国を拝領、本能寺の変で堺見物をしている最中に光秀軍に襲われる危機に接し、多くの軍勢を連れていなかった家康は、伊賀を抜け、伊勢を通って三河に帰るルートを選択したと言われるが真実は定かではないが、討たれる危険性は大であった。

 

その後、羽柴秀吉明智光秀を打ち、織田政権の有力継承の位置を占めた秀吉がいくつもの戦いと計略を経て天下統一を成し得たかに見えたが、秀吉亡き後、家康は秀吉の遺言の五大老五奉行制」をなし崩し的にし、関ヶ原の戦い家康の天下になった。

 

幼少期の不幸な生い立ちから、今川、織田、羽柴に従属しながらも数々の危機を自らの判断と幸運にも恵まれながら、天下人へと上り詰めた。

 

堀 講師は、家康の75年の一生を振り返って来ましたが、類希なる幸運に恵まれた人生だったと講演を締めました。

 

■ 「信長・秀吉・家康の茶文化」

 

信長は、天下統一の戦いの合間に茶道具を集め、恩賞の場の茶会で披露し、それを恩賞の場で与え部下との信頼の証とした。

 

秀吉は、茶会をファッションとして扱い、黄金の茶室など華やかさを求め、侘び寂など利休が求める世界とは相いれなかった。

 

家康は茶の世界は愛したが、茶人ではなかった。

 

歌にあるホトトギス「鳴かぬなら殺してしまえ」「鳴かせてみよう」「鳴くまで待とう」や、「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、そばで食らうは徳の川」の3者の性格が茶の湯にも表れている。

 

講師の小泉さんは、茶の湯はお茶を飲むことが人との交わりを深めるところに妙味や面白さがあると言って講演を終わりました。

 

さて、静岡歴史民俗研究会は隔月開催が通常ですが、次回第53回は4月6日(土)テーマ「城と満州国を巡る」です。どんな話が聴けるのか、楽しみです。