今川義元公生誕5百年祭 「生活情報交換会 4月例会」に出席

NPO法人 しまだ環境ひろば 「事務局」 です。

 

昨日 (4月19日 金 am) は、静岡市アイセル21で毎月一回開かれる、「 生活情報交換会 4月例会」 に参加しました。

 

生活情報交換会は、某企業をリタイヤ―した数人の有志が、月一回良い話を聞いたり、情報交換をしたり、有意義な老後を過ごそうと立ち上げた会です。

 

幹事団 (発起人) のお蔭で、百回を超え、今回は115回目でした。

 

この会には、いろいろな業種の方が集まり出したので努めて参加しています。

 

集まったのは、今では某企業のリタイヤ―組の域を超えて、いろいろな方が集まりだし、昨日の参加者は、47名と盛況でした。

 

講師は、関根 豊先生で、題目は、「今川氏と静岡の歴史・文化 ― 今川義元を中心として― 」でした。

 

静岡と言えば、すぐ徳川家康が論じられるが、徳川家康と静岡との関りは僅か25年、今川氏と静岡の関りは230年に及ぶ。徳川家康は今川文化の影響を大きく受けた、と話が始まりました。

 

確かに、徳川家康の話はこれまでいろいろな機会に聞いてきたが、これだけ纏まった今川氏の話を聞いたことはなく、講演は中休みもなく、1時間半一気に進みました。

 

今川氏は、源氏の流れをくみ、足利氏~吉良~から分かれた名門で、初代から10代で滅亡した。

 

今川の名前は、三河の今川庄から始まり、昔は地名を氏名にした例が多い。

 

歴史上の初代は、今川国氏であるが、今川範国の時代に今川氏の勢力が広がったとして、範国が事実上の初代とされているという。

 

2代範氏は、島田市の大草に今でもある、「慶寿寺」 にその頃南朝の勢力が強かった備えとして、居城を備えたという。

 

島田市の話が突然出てきたので、大変驚きましたが、静岡ではなく、なぜ今川氏の居城が島田市にあったのかその理由が分かり、島田市出身の筆者としては納得の話でした。

 

その後、居城は、だんだん東に移り、今の静岡市に今川館ができたのは、今川氏の勢力の高まりを象徴しているという。

 

さて、本題の今川義元は、9代目で、7代目父氏親と母寿佳尼の子供として生まれた。

 

寿佳尼は、京都の公家 「中御門宣胤の娘」 だったという。

 

教育係は、あの有名な、「雪斎」 だ。

 

義元は、元々出家させられた身であったが、種々なお家の事情から9代目当主となった。

 

義元の人物像は、いろいろな説があるが、検地と年貢の制度や、分国法 (自国内の法律) をを制定したり、商業活動を活発化させたり、金山を開発したり、大変優れた当主であったという。

 

そのお蔭で、東海道に沿った駿河の国は、特産物の生産や職人や商人が多く集まり、大変栄えたことは知られている。

 

その絶頂の時期に、ちょっとした油断で、桶狭間にて織田信長により首を取られ、次の10代目 氏親 で滅亡した。

 

元号が変る、2019年は、義元公生誕500年に当たるという。

 

この節目の年、「今川復権」 を旗印に、静岡市ゆかりの今川義元公の功績を再評価し、様々なイベントを開催するという。

 

その一環の中で、今日、生活情報交換会のみなさんに、義元公の話ができたことを大変嬉しく、感謝したいと結んで講演を終わりました。

 

関根先生、これだけ纏まった今川義元公の話を聞かせて頂き、本当にありがとうございました。